幕末や、明治維新の話になると、 土佐では坂本龍馬、薩摩では西郷どんとくる。
では、佐賀では誰か。それは言わずと知れた 「佐嘉の七賢人」なのだ。
”竜馬が行く”も”翔ぶが如し”もあったけど、 佐賀人はやっぱり地味で
ドラマには不向きだが、 この”七賢人”こそ、明治維新の功労者だと言える。
佐賀藩10代藩主。天下に率先して西洋文明をとり入れた人である。反射炉の設立。大砲・兵器の鋳造、
西洋医術の研究、特に種痘の普及、藩校弘道館の拡充などの功績がある。
日本赤十字社の創設者。大蔵卿や元老院議長も務めた。日本美術協会を設立したのもこの人である。
外務卿として樺太境界についてロシアと談判したり、日清修好条規を批准したり、外交に活躍した
人である。
明治維新の折、民部・文部・司法卿を務め、教育制度を整備した。
初代司法卿となり、司法制度の基礎をつくった人。
明治7年、40才で佐賀の役で処刑された。以後、復権したが、自らがつくった刑法によることなく、
策謀による処刑であった。
早稲田大学創立者として有名。財政・外交方面に活躍し、参議・大蔵卿を歴任、立憲主義を提唱した。
鍋島 直正(1814〜 71)
知識に富み、時流を読むことにすぐれた殿様であった。
島 義勇ーよしたけ
(1822〜 74)
政治家で佐賀の役の中心人物。蝦夷・樺太を2年間にわたり探検した。
開拓使判事となり、札幌市街の建設など、北海道開拓に貢献した人でもある。
(donpuさん wrote)秋田県の初代権令(知事)でした。彼は知事に任命され、秋田城で県庁を発令し、
初めて椅子で事務を執らせた。八郎潟開発を政府に提言したが、予算がとれず、わずか半年足らずで
権令を辞して、天皇の侍従になったと聞いております。
佐野 常民ーつねたみ
(1822〜1902)
佐賀郡川副町に記念館がある。
副島 種臣(1828〜1905)
書家としても有名で、佐賀県議会議場の銘も彼の書である。
大木 喬任ーたかとう
(1832〜 99)
生涯を通して篤学の人であった。
江藤 新平(1834〜 74)
司馬遼太郎の「歳月」の書き出しは、”この稀代の策士がはじめて世間に姿をあらわしたのは、
幕末の京である。文久三年の夏であった。”ではじまる。
大隈 重信(1838〜1922)
外務大臣時代に爆弾を投げられ片足を失ったが、再び外務大臣に復帰し、総理大臣を二度務めた。
このほど、その片足も里帰りした。佐賀市に生家が記念館として残されている。