長崎街道は、小倉と長崎を結ぶ57里の街道です。江戸時代、鎖国下の日本では、
オランダと中国だけに門戸を開き、長崎が唯一その貿易港とされていました。 外国の文化、文明、鳥獣までも、この長崎街道を通って、江戸に上った「日本の 黎明への道」だったのです。 このたび、郵便局では「長崎街道 絵葉書シリーズ」
を発行されたので、
当ページでは、今も当時の面影を残す宿場界隈を散策することにします。 |
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佐賀藩と境を接し、山に囲まれた嬉野宿は、川辺に藩営浴場があり、 これに上使屋が隣り合わせ、高札場、馬継所ももうけられていた。 浴場近くには旅籠並び、木賃宿は宿場中に散在し湯治客でにぎわい、 往来する長崎奉行は、端光寺を本陣とした。この寺は今も当時を偲ばせ 、茶の香りが漂う静かな温泉の町である。 あちこちで立ち登る湯煙を代表する共同浴場も健在である。 |
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塩田は陶器の町である。『世界最大の水がめを産しオランダ人は大量に 購入し、ハタビヤ(現ジャカルタ)に送り、東インド諸島で有利に販売する』 とツンベルクも記している。 鍋島支藩御三家蓮池藩は飛び地のここに西目役所を置き、武家屋敷を建て、 藩校を開くなど、さながら城下町のようだったという。嬉野からの塩田宿は 鳴瀬宿を経て北方へ抜ける旧道で、もう一方は、柄崎(現 武雄)を経て 北方へ至る街道の二つに分かれる。 |
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享保年間に柄崎道が開かれるまで、鳴瀬、塩田経由嬉野が本道であった。 杵島山地北西端の山麓に位置し、浄土真宗西岸寺が本陣として使われた。 塩田川の氾濫などで度々困難が生じたため、北方、柄崎、嬉野と峠を越える 山路に変わった。 現在、佐世保ー有田ー佐賀の幹線上にある柄崎(武雄)と較べ、旧道は、 白石平野を東に見下ろす大山岳群の北端・勇猛山を回り込み、すっかり さびれているが、それだけに街道の雰囲気は残っている。 |
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長崎港が外国貿易港として開港前の宿で、武雄湯町の客が宿継ぎをする 位置にある。 直進すれば大楠で名高い川古宿に出る。 おそらくは、六角川の氾濫かと思うが、 「道は泥塗水僚田中をゆくが如し(筑紫紀行)」連日の大雨にも、歩き通すしか ない昔の旅の苦しさを物語る名文が残されている。 |
「文明ロード 宿場今昔」シリーズは、県内の12の宿場のうち
、長崎から入った嬉野宿から
北方宿へ向かう、もう一方の、いわば
新道の塔の原川橋宿
に入ります。
ここから現在の武雄を経由するのです。
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伊能忠敬の測量日記の一節には、「渕の尾峠より始め長崎本街道を測る。枝塔の原分、 塔ノ原川巾二間、西山本村皿山街道追分に繋ぐ、右、田の中に薬師堂あり、左山上に観音堂 あり」と記されている。 渕の尾峠に差し掛かる道が一部を残しダムの湖底に沈んだほかは、同じような 風景が今も生きている。 |
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