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Friendship Delegation to Myanmar

〈The Japan War-Bereaved Association〉

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ミャンマーへの訪問団

  日本遺族新聞に、『ミャンマー慰霊友好親善訪問団』参加者募集の記事が載った。
  これまでも、各地への戦没者遺族の参加を募る事業が実施されてきたが、親父が戦死したビルマへの機会は、相手国の世情もあって仲々実現しなかった。
  『先輩、今度こそ応募してみましょう』と、遺族会の後輩も声をかけてくれた。頭の手術のことも一段落した今こそ、最後のチャンスかもしれないと決断した次第である。
  あわててパスポートを手続したりしてミャンマーのことを勉強しているが、お金は新札ほど値打ちがある、大半が仏教徒で泥棒は少ない、食事やお金を渡すときは必ず右手を使うことなど、新しい国だから情報も少ないが、最近の民主化の動きから観光ラッシュでほとんどのホテルが改装中らしい。Internetの普及は今かららしく、参考書を検索して買い込んだりしている。
  真冬から常夏の国への旅行で、身の回りの物などを整えるのに頭を悩ましているが、2/12から10日間の旅である。
  親父の人生の三倍も生きてきたが、戦没地に捧げる故郷の水や小石の包装のこと、慰霊祭での挨拶文など、今にして父親への思いを熱くしている親不幸ものである。

( お座敷で見守っている親父の遺品)

 

結    団    式

  平成27年2月12日、全国17都府県から集まった団員27名が靖国会館に集まって結団式が行われた。その後、靖国神社本殿
に参拝して、明日からの訪問団の旅の平安を祈願して、成田空港傍のホテルに移動した。
   団員はミャンマーに到着した後、南部を巡回するA班と北部を巡回するB班とに分かれ、それぞれ父親の戦死地の近くで
追悼式を挙げることになっている。  写真下はB班で、私の左が牟田部の塚辺君でその左が白石町の森さん。佐賀県からは
この三人である。

2月13日(第 1 日)  日本  →  ミャンマー(ヤンゴン・ラングーン)

 昨年から就航しているミャンマー直行便はANA 訪問団の旅立ちを真っ青に晴れた富士山が祝ってくれた
 ヤンゴンまでのフライトは 8時間(時差 -2.5時間) 第一夜を迎えるホテル、セドナホテルは近代的な国際級
 わが班の団長と添乗員を囲んで初めての夕食 ビールは世界一の定評だが、料理は味見程度にとどめた

2月14日(第 2 日)  ヤンゴン 発  →  空路 ミイトキーナ へ

 ホテルの部屋から見下ろすと、大都会の雰囲気 最近の民主化で観光客が増え、ホテルは増築ラッシュらしい
 同行した牟田部の塚辺君と先ずは記念写真 結婚式を迎えるらしい新郎新婦を捉えパチリ
 新婚旅行に向かう車も玄関先に配置されている 結婚式のお祝いは玄関で受け付けるみたい
 大通りの混雑ぶりは 9割が日本の中古車とか 相乗りのタクシーは満員状態。歩行者もありゴチャゴチャ

 2時間でミイトキーナ着。さすが北端で涼気が漂う 空港内の売店。利用客も少なく、田舎に来た感じがする
 空港全景。ターミナルに向かう一行。人口30万人の街  空港も改築される予定で将来のモダンな姿を掲示している
 工事用のブルドーザーやダンプカーが忙しそうに動いている 空港前の客待ちのタクシーはのどかである
大通りの交差点で日本軍が残した時計塔が現役で動いている 仏舎利塔が並ぶ街並みを走るバイク、ほとんどが2、3人乗り
トラックの前でも,みんな運転が上手。舗装は行届いてない バスを停めて、明日の追悼式の下見。対岸の中の島
 露店でくつろぐ女性。どうも朝食から利用されているみたい ロンジーで闊歩する女性群。ビルマの風景にマッチしている
 どこの寺院でも造りは立派だ。お布施を競い来世に祈願する 「来世も人間に生まれたい」ミャンマー人は現世に拘らない
 ビルマの仏様はどこもとても艶っぽい。民衆の信仰心は篤い 長さが70mで、高さは17mあるとか。表裏どこからでも拝める
 招魂の碑。圧倒的な敵に徒手空拳、肉弾突撃で闘ったとある 寺の傍のトイレ。左には清潔のための水が貯めてある
 ホテルロビーに飾られているビルマの古典的な民族衣装の額 ホテルはロゴハウス風で、案内嬢はチャーミングだった
 夕べのつどいで配宿とスケジュールの確認 添乗員の隣は現地ガイドで小学4年まで日本に住んでいた
 全行程で同室だった森さんと5年前も一緒だった坂本さん 団長さんと添乗員のヤスユキ君
 経費の都合か夕食はレストランで、ビールは自費 @nkouは水当たりを用心して、ほんの味見と焼飯だけ
 班のアイドルはいつも一緒。仲々割り込めない ステージではビルマ演歌か若い娘が次々と登場

2月15日(第 3 日)  ミイトキーナ(追悼式) 発  →  空路 マンダレー  へ

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 07:30ホテル発で、ノンタロー島へモーターボートで渡る 川中島にスイカがゴロゴロ転がっている中を進む
 島を見下ろす大樹の根元に追悼式の準備が整った 中国やインドのインパールに向けて日本軍の防衛拠点だった
 6人が追悼の誠を捧げ、塚辺君も肩の荷を降ろした様子 様子を眺めに来た近所の母娘
 放し飼いの牛の群れが平然と草を食んでいる 大河のほとりでは昨夕と同じように洗濯のおばちゃん

マンダレー 着
 空路約1時間で、ミャンマーの中心部マンダレーに到着 ミャンマー最後の王朝、コンバウン朝の王宮
 第二次世界大戦で王宮は焼失し、1990年に再建された 無数の宮殿やパコダが、複製とは思えない精細さだった
 マンダレーヒルはバスを乗り継いて、タクシーの奪い合い 小高い丘全体が仏教寺院になっていて、拝観料が約100円
 夕日が落ちるのを待って大混雑。西洋人の観光客が多い 山頂からのパノラマは圧巻。沈む夕日に数千人が息を呑んだ

2月16日(第 4 日)  マンダレー滞在  (第二日)

 マンダレーでの第二日は、国立の整形外科病院を慰問した 国立の施設で医者200人が頑張っている。不安げな患者たち
施設はさほど新しくはないが、伸びやかな環境の中にある 慰問記念に、みんなで空輸してきた車椅子を贈った

サガインヒルでの追悼式
サガインヒルは激戦地で戦没者を弔ったパコダや石碑が多いインタンギィに眠る父に向けて大声で呼びかけた  追悼文
 相知駅で見送りを受けるホームに小旗の柄で『安幸』と大きく書いてくれたという、祖母の口癖を胸に誇りを持ってきた
 どうぞ安心して下さい。祖国はいち早く復興の道を辿り 世界のリーダーとして、ビルマの復興にも手を差伸べており
 貴方に抱かれたこともなく、三倍の人生を生きましたが貴方の代わりに故郷に尽くしてゆく覚悟をお誓いします

 

つ  づ  く    

 

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