'01-Autumn
季節 | |||
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島おこしの宝当神社 | ’01.12.23 | ||
花ならぬ綿花 | ’01.12. 9 | ||
我が家からの稚児行列 | ’01.11.26 | ||
我が国最初の種痘像 | ’01.11.21 | ||
県内秋の二大イベント | ’01.11. 6 | ||
「三十六万石まつり」の提言 | ’01.10.29 | ||
クラシック 案山子 | ’01.10.14 | ||
矢切の渡し | ’01. 9.28 |
人口400人の小さな島にある「寶當神社」を世に出したのは 野崎隆文君(39才)。今では、旅行社のツアーにも組み込まれている人気スポットとして大賑わいのお宝グッズの島です。祭神は、野崎隠岐守綱吉。島民は、いつしか島の大権現…島の宝として「寶當神社」と称して敬ってきました。 購入したばかりの宝くじを持って参拝して驚きました。お堂の四囲の壁には、御礼の祝儀袋や当選札がビッシリ貼ってあります。これまでの当選報告では、昨年の年末ジャンボ 2億5,000万円の福岡のおじちゃんからの例があるそうです。 |
その佐賀空港道路は、縄文の時代から計算すると、1年に60pずつ陸化したと言われる干拓をつないでまっすぐに南下するのですが、最近、その路肩に雪が積もったような樹木に気づきました。肥沃な沖積土も、干拓後に水稲を栽培できるまでには長年の塩抜きが必要です。この地域でも、それまでの間、塩分に強い綿の栽培が盛んであった言います。 歴史にちなんで植えられた綿の樹は、今、卵形の果実がはじけて綿毛がむくむくと盛り上がり、初冬の光を受けて花ならぬ綿花の季節を誇示しています。この果実を、佐賀空港応援団では「コットンボール」として民芸品の創出に活かしたいとのことでした。 |
先導する坊中と晴れやかな衣装の稚児が、取り澄ましてお寺に向かいました。我が家の子どもも 20年ほど前に行列させたことがありますが、今度は座前として大掃除などに大忙しでした。 お寺の庭は、小さい頃にカブトムシを探した銀杏の木が両手で抱えきれないほどに大きくなって、色づいた落ち葉が一面に降り敷いて、子供達の白足袋とともに光っていました。親父の白髪も光って見えます。 法話によると、上人は浄土真宗を興し1262年 1月16日に没しましたが、門徒は「お取り越し」として年内に法要を行い、今回は741回忌、750回忌の大法要は西本願寺で執り行われるそうです。 |
不覚にも今日気づいたのですが、その像を取り巻く庭木も見事な紅葉の時期を迎えていました。ニシキギが燃えるような枝を差し伸べています。 天保年間(1830〜1843年)に天然痘が蔓延していた折、鍋島藩主は伊東玄朴らの進言により、オランダから良質の牛痘苗を入手させ世嗣淳一郎に種痘を受けさせ、これが牛痘法全国普及のきっかけとなったとあります。 玄朴は間もなく江戸において種痘医養成に尽くすことになりますが、県立病院の前身、佐賀藩医学校は天保 5年(1834年)には設立されていたそうです。 |
バルーンフェスタは、国際的な緊張のもと外国選手の参加が危惧されましたが、18ヶ国120機の参加で例年どおりの盛況でした。 11/4 08:00。競技会場のメインステージでは、早朝から詰めかけた観衆が河川敷と堤防から声援する中、両パイロットのはからいで I love New-York号と Liberty号が揃って立ち上がり、世界中からの激励に応えるように元気に飛び立っていきました。優勝したアメリカのキオン選手のコメントは、「敢えて参加した。欠場したらテロに負けたことになる。」という言葉だったそうです。 |
全国260ばかりの諸大名の中では、加賀・薩摩・仙台・肥後熊本・筑前黒田・広島浅野・萩毛利に次ぐ八番目の雄藩でありながら、市民あげての祭りが定着していないことから、「鍋島三十六万石まつり」に発展させようという提言・パレードでした。 元和元年(1615年)の「武家諸法度」では、石高により総人数や隊伍が定められており、佐賀藩の場合は五百人前後の行列が続いたものと考えられますが、同好会では「毎年続け佐賀の風物詩にしたい。目標は、築城四百年の平成20年までに往時の参勤交代を再現すること」と意気盛んなアピールでした。 |
この頃、稲刈りの時期がだんだん早まっているような気がします。昭和40〜41年に連続米作日本一を達成した佐賀平野も、 兼業農家が多くなってこの週末で一気に刈り取りが進みました。 その中で、まだ案山子(かかし)が残っている田圃に近づいてみました。あちこちでモダンな スタイルと表情を見ることが多くなりましたが、ここのかかしは、「へのへのもへ」のクラシック顔でした。 近くの農夫の話では、「今年は日射しも強かったし、台風も来なかったから『豊作』て言ぅて良かろうねぇ」という ことでした。 刈り取りがすんだ佐賀平野が、月末から始まる国際バルーン選手会のステージとなるのです。 |
当時、江戸への出入りは厳しく関所破りは磔という中で、江戸川両岸の農民だけは田畑の耕作のために自由に往来できた ことによります。 今も変わらぬ渡し場の木立に、大きな白い旗(見出し写真の右上)が揚がると営業日なのです。 この渡しの庶民性と矢切の里の美しさは、千葉の詩人伊藤左千夫の小説 「野菊の墓」で、 淡い恋物語の背景として描かれています。(図書カードはこちら) 現代では、歌謡曲で知られており、この川を渡れば、「寅さん」の葛飾柴又・帝釈天の門前町です。 |