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 山本常朝と田代陣基の出合い
 宝永七年(1710年)の三月初旬、佐賀城の北12キロ、金立山(約 500メートル)の麓の草庵(現在、 黒土原と呼び葉隠記念碑が建てられている)で、葉隠誕生の契機となった一つの出合いがあった。
 穏棲し、亡き藩主光茂の菩提を弔う日々を送っている山本常朝(52歳)の草庵を訪れたのが藩士 田代陣基(32歳)である。
 藩主の祐筆役(文書役)を辞めたのち、求道の心に燃えて常朝を慕ってきたのであった。

浮世から何里あろうか山櫻 古丸(常朝)

しら雲や只今花に尋ね合い 期酔(陣基)

 初会の日に詠んだ二人の俳句だが、相知った喜びがにじんでいる。  

  

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 葉隠の成立ち
 田代陣基は「宝永七年三月五日」初めて参会し、草庵の近くに住み、「享保元年九月十日」までの 六年半にわたり、常朝から教訓や古人の遺訓のほか歴史伝説、実話物語、人物評などを聞き、 自分で調べた記録などを加え巻別に整理し、全十一冊にまとめあげた。
 これが『葉隠聞書(ききがき)』である。

 成立ちの特徴として、葉隠は藩主の命令や世に出す目的で書かれたものではなく、常朝、陣基二人の 合意だけでできたものである。

 「この始終十一巻、追って火中すべし。世の批判、藩士の邪正、推量、風説等に遺恨悪事にもなるべく …」「消却せよ」との注意書が秘本扱いであることを示している。

 『葉隠』は心ある武士によって秘かに写され、廻し読みなどされてきたものである。


葉隠の発祥地…大和町・黒土原の「常朝先生垂訓碑」(二章の写真も)
  

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 葉隠の名のいわれ
 三百年程前に筆録された『葉隠聞書』の「葉隠」の名のいわれは諸説が多い。

@ 西行法師の「山家集」にある、「はがくれに散りどまれる花のみそ偲びし人に会うここちする」から とったとする説。

A 人里遠く離れた大変淋しい所、周辺に木立が多く木の葉に隠れる草庵での語り合いという、 周囲の環境から思いついたものとする説。

B 歴史学者久米邦武博士の「草葉の陰から」「鍋島侍は覚悟の根本は死で、草葉の陰から鍋島藩を 背負う精神である」から、この集まりを葉隠と言う。

C 葉隠巻二に「人の為になることは我が仕事と知られざる様に、主君には陰の奉公が眞なり 仇を恩で報じ、陰徳を心がけ…」とあることから、常朝が「陰の奉公」を重んじ売名的行為を戒めた 心境を汲んで名付けたとする説。

D 殿様である五代藩主鍋島宗茂が金立権現原の田代陣基の家に立ち寄って葉隠と言ったという説。

などがある。

 つまり、「葉隠」の名は内に秘めた情熱を重んじる思想に加え、草深い樹陰での聞書ということから 名付けられたものと見られる。

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