.
.

葉隠聞書(ききがき)の形成に最も重要な人物

  • 葉隠の成り立ちや内容に深い関係の四人の人物
    この四人は、「葉隠四哲」と称されており、その略歴を紹介する。
  
山本 常朝
 葉隠の口述者。万治二年(1659年)六月十一日に、佐賀市城下片田江横小路で、佐賀藩士山本神右衛門 重澄の末子として生まれた。ちなみに、「忠臣蔵」の大石良雄もこの年の生まれである。
 常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が葉隠(聞書第二)にあり、それによると、自分は 父七十歳のときの子で、塩売りでもやろうと父は思ったが、多久図書(重澄の大組頭)の「父の血を 受け末々御用に立つ」という取りなしで、初名を松亀と名づけられ、九歳のとき、光茂(二代藩主)の小僧として召し使われたという。  
  

  
生来ひ弱くて二十歳まで生きられまいと言われたので、「よし、生きてやるぞ」と発憤、鍛錬を重ねた と語っている。
 十一歳で父に死別し、十四歳のとき、光茂の小々姓となり、延宝六年元服して権之丞と改名、御傍役 として御書物役手伝に従事する。この年に、田代陣基が生まれている。
この間、私生活面では二十歳年長の甥山本常治に厳しい訓育を受け、逞しい武士に成長した。

 だが、権之丞が、若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となった。 失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚に仏道を学び、二十一歳のときに仏法の血脈( 師から弟子に法灯が受けつがれること)と下炬念誦(あこねんじゅ生前葬儀 の式と思われ、旭山常朝の法号を受けた)を申し請(う)けている。
 葉隠で慈悲心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたといえよう。さらにこの前後、 神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれながら松梅村(現大和町)下田に閑居する石田一鼎を 度々訪れて薫陶を受けた。このことも後の葉隠の内容に大きな影響を与えている。

 二十四歳で結婚、同年、御書物役を拝命、二十八歳のとき、江戸で書写物奉行、あと京都御用を 命ぜられている。帰国後の三十三歳のとき、命により親の名「神右衛門」を襲名した。
 五年後の元禄九年、再び京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった「古今伝授」 (古今和歌集解釈の秘伝を授かること)を得るために、この取り次ぎの仕事に奔走した。「古今伝授」の すべてを授かることは容易ではなかったが元禄十三年、ようやくこれを受け、隠居後重病の床にある 光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした。

 同年(1700年)、光茂が六十九歳の生涯を閉じるや、四十二歳のこの年まで三十年以上「お家を 我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家、 佐賀城下の北十キロの山地来迎寺村(現、佐賀市金立町)黒土原の庵室朝陽軒にこもった

 田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから十年後のことである。

 のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分の墓所と定めたので、常朝は 遠慮して近くの大小隈(現、大和町礫石)に移り住み、山居すること二十年、享保四年(1719年) 十月十日、六十一歳で没した。

.
辞世の歌

尋ね入る深山の奥の奥よりも静かなるべき苔の下庵
虫の音のよわりはてぬるとばかりをかねてはよそに聞きて過ぎしが

 常朝は「生い立ち」のことを語っている葉隠の項で、「奉公の最高の忠節は、主君をいさめて国を 治めることで、その為には名誉や利益を考えず家老になることだと決心、血涙の出るほど努力したが果たせ なかった。

 しかし、実質的は念願を遂げたも同様と思っている」旨の述懐をしているが、常朝の真情が うかがえる。

  

.
「葉隠四哲」の一人 田代 陣基

 葉隠の筆録者。延宝六年(1678年)、竜造寺胤久八代の孫である佐賀藩士田代小左衛門宗澄を父とし、 鍋島主水茂里の家臣の娘を母として生まれた。初名を源七、通称又左衛門という。
 若い頃から文筆に長じ、元禄九年十九歳のとき三代藩主綱茂の祐筆役となり、引き続き四代吉茂 にも同役で仕えたが、宝永六年三十二歳のとき、理由は不明だがお役御免となった。翌七年三月五日 (陽歴四月三日)初めて山本常朝を黒土原の草庵に訪れ、教えを請うたときは失意のさなかであった と思われる。

 草庵の近くに住み常朝の談話の筆録が始まり、以来七年の歳月を経て、享保元年(1716年)九月 十日、「葉隠」の脱稿を見た。逆境にめげない求道心の強い陣基の性格がうかがえる。
 その後、享保十六年五十四歳のとき、六代藩主宗茂の時代に再び祐筆役に復職、江戸詰めで御記録役 を兼ね、同二十年には隠密御用書整えの功を賞せられ、切米加増を受けている。

 陣基が一かどの文章家であり、編集の才能にも秀でていることは、葉隠全巻が明確に示している。 葉隠の文章には、「端的只今の一念」「まじり物ありては道にあらず」などの言葉そのままに簡潔率直で、 たるみも粉飾も無い卓越した表現が多い。「〜と見付けたり」の表現など現代でも応用されてよく使われ ている。 「士道」「武道初心集」など同時代の武士道書と比較しても、葉隠の文章はきびきびとした言葉つかい ながら味わい深い余韻が漂うーといった特徴がわかる。

 陣基は、また蕉門系俳句を学び、期酔、または松盟軒と号している。常朝と冬の夜を語り明かした翌朝には、

手ごなしの粥に極めよ冬籠り 期酔
朝顔の枯蔓燃ゆる庵かな 古丸(常朝)
と吟じ合っている。(聞書 第二) 

 常朝におくれること二十九年、寛延元年(1748年)七十一歳で没した。松盟軒期酔之墓と刻んだ墓石が、昭和十三年に 佐賀市田代瑞竜庵で発見され安置されている。

  

 

.

.