湛然梁重和尚。生年は不明。もともと肥前の生まれで三河国(愛知県)の寺にいたが、同国の長円寺
住持であった武雄出身の名僧月舟の推せんにより、鍋島家菩提寺高伝寺第十一代住持となった。
高伝寺住持となるや、藩主といえども寺内での飲酒を禁じるなど厳しく寺風を刷新し、反面、
慈悲心に富み、光茂はじめ諸人の尊敬をあつめた。
寛文九年(1669年)、円蔵院住持が寺格昇格の件で光茂に直訴した事件で、湛然の助命嘆願が
入れられず死罪となったので憤慨して寺を去り、知友深江信渓のいる松瀬(大和町松瀬)の通天庵
に入った。光茂の再三の説得も断り続け、遂に光茂も折れてこの地(熊の峰)に、高伝寺の
末寺として華蔵庵を建ててやり、十石の扶持をを与えた。
山居すること十三年、延宝八年(1680年)に没したが年齢は不明。墓は華蔵庵跡にあり、ここに昭和
九年、有志により五輪塔が建立された。通天寺には、湛然没後十年程して作られたと目される見事な
彩色座像がある。また、高伝寺には、十王絵の一幅に添えた湛然の墨痕鮮やかな書が残されている。
常朝の父重澄が深く湛然を敬い、生前に法号を授かるほどであったので、常朝も青年時代に足しげく
華蔵庵を訪れて教えを受け師事している。
後年、葉隠の冒頭「夜陰の閑談」のなかで一鼎の「要鑑抄」と趣旨を同じくする三誓願の次に
「大慈悲を起し人の為になるべき事」の一行を加えているのは、明らかに湛然の影響の表われと
目される。
葉隠(聞書第六)に、「湛然和尚平生の示しに」で始まるいわば湛然の思想の精粋を示したと
思える項がある。
「出家は慈悲を表にして、内には飽くまで勇気を貯えざれば、佛道を成就すること成らざるものなり、
武士は勇気を表にして内心には腹の破(わ)るるほど大慈悲を持たざれば、
家業立たざるものなり。これに依って、出家は武士に伴ないて勇気を求め、武士は出家に便りて慈悲心
を求めるものなり。〜中略〜
又慈悲というものは、運を育つる母の様なものなり。無慈悲にして勇気ばかりの士、断絶の例、
古今に顕然なりと。」
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