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「葉隠四哲」の一人 石田 一鼎(いってい)

 寛永六年(1629年)生まれ。幼名を兵三郎と称し、幼年より学を好み、母から制止される程勉強し、 十五・六歳の頃には、儒・仏の書物で閲読しないものはない位であったという。十七歳のとき父を喪い 家督を継いで二百五十石を拝領、藩主勝茂の近侍となった。元服後、安住衛門宣之と称した。
 その後、勝茂の遺命により一鼎より三歳下の光茂の御側相談役となり、佐賀藩随一の儒学者として 力量を発揮、よく補佐した。

 ところが、三十四歳のとき、光茂の勘気に触れたのか支藩小城藩に預けられ、その領地の松浦郡 (現、伊万里市)山代郷に左遷された。その理由は明らかでないが、主君の前で私利に走る重臣を面責 するなど剛直な性格で、特に殉死禁止の件では、左遷がこの翌年のことから、主君と厳しく意見を 異にしたためではないかと見られる。

   幽居すること八年、寛文九年(1669年)に許されて帰り、佐賀郡下田(大和町)に移り住み、落髪し 一鼎または下田処士などと号した。ここでは極端な簡易生活に甘んじ、葉隠(聞書第一)にも 「一鼎申され候は、よき事をするとは何ぞというに、一口にいえば苦痛さこらうる事なり。苦をこらえぬは 皆悪しき事なり。」とある。一鼎を尋ねて学ぶ者は多く、三十歳年少の山本常朝も、しばしば門を叩いて 教えを請うた。

 著書も、「要鑑抄」、「泰巌公(竜造寺隆信)譜」、「日峰公壁書二十一箇条註」、「聖徳太子五憲法 釈義」など数多い。なかでも「要鑑抄」は、忠孝を本とし、神儒仏三道の合一を説き、武士道の解明に 努めたもので、このなかの「三誓願」を見ても、一鼎の思想が常朝に与えた影響は大きく、葉隠の内容に 深くかかわっていることは明白である。
葉隠のなかに、一鼎に対し批判的な見方をしている文もあり、また、葉隠より何年も前に記された、 一鼎と養子為淳の手になる「石田私史」では、逼迫する藩の財政も顧みず遊楽にふける藩主や重臣等を 厳しく批判しているのに対し、「葉隠」にはその観点が欠けているとの説があるなど、万事にわたり 連綿とつながる一鼎…常朝の系譜はないにせよ、「要鑑抄」を見る限り、両者の武士道思想の系譜をも 否定できるものでは決してない。
 常朝とて、「天下国家は御一人様のにて御座なく、万民安穏に御座候御仕置を遊ばされ〜」で 始まる「書置」を、後の六代藩主宗茂に差し出しており、万民のため主君に諌言する意思をはっきり 表わしている。

 一鼎は、元禄六年(1693年)、六十五歳で没。墓は、佐賀市精町水月寺及び下田の庵跡にあり、 共に梅山一鼎の語が刻まれている。下田の祠は、「勉強の神様・一鼎さん」として親しまれ、国道端 には、肥前史談会建立の標柱が建っている。  

  

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「葉隠四哲」の一人 湛然(たんねん)和尚

 湛然梁重和尚。生年は不明。もともと肥前の生まれで三河国(愛知県)の寺にいたが、同国の長円寺 住持であった武雄出身の名僧月舟の推せんにより、鍋島家菩提寺高伝寺第十一代住持となった。
 高伝寺住持となるや、藩主といえども寺内での飲酒を禁じるなど厳しく寺風を刷新し、反面、 慈悲心に富み、光茂はじめ諸人の尊敬をあつめた。

 寛文九年(1669年)、円蔵院住持が寺格昇格の件で光茂に直訴した事件で、湛然の助命嘆願が 入れられず死罪となったので憤慨して寺を去り、知友深江信渓のいる松瀬(大和町松瀬)の通天庵 に入った。光茂の再三の説得も断り続け、遂に光茂も折れてこの地(熊の峰)に、高伝寺の 末寺として華蔵庵を建ててやり、十石の扶持をを与えた。

 山居すること十三年、延宝八年(1680年)に没したが年齢は不明。墓は華蔵庵跡にあり、ここに昭和 九年、有志により五輪塔が建立された。通天寺には、湛然没後十年程して作られたと目される見事な 彩色座像がある。また、高伝寺には、十王絵の一幅に添えた湛然の墨痕鮮やかな書が残されている。

 常朝の父重澄が深く湛然を敬い、生前に法号を授かるほどであったので、常朝も青年時代に足しげく 華蔵庵を訪れて教えを受け師事している。

 後年、葉隠の冒頭「夜陰の閑談」のなかで一鼎の「要鑑抄」と趣旨を同じくする三誓願の次に 「大慈悲を起し人の為になるべき事」の一行を加えているのは、明らかに湛然の影響の表われと 目される。
 葉隠(聞書第六)に、「湛然和尚平生の示しに」で始まるいわば湛然の思想の精粋を示したと 思える項がある。

 「出家は慈悲を表にして、内には飽くまで勇気を貯えざれば、佛道を成就すること成らざるものなり、 武士は勇気を表にして内心には腹の破(わ)るるほど大慈悲を持たざれば、 家業立たざるものなり。これに依って、出家は武士に伴ないて勇気を求め、武士は出家に便りて慈悲心 を求めるものなり。〜中略〜
 又慈悲というものは、運を育つる母の様なものなり。無慈悲にして勇気ばかりの士、断絶の例、 古今に顕然なりと。」
 

  

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